興味深い歴史 その9

昭和六年(一九三一)以降ともなれば、こうした政治の体質は、もはや日本ではあたりまえのこととなり、それが日本の急激な没落への道を開くことになるのですが、田中内閣はすでに、そういう日本の運命を予告していたといってもいいでしょう。

しかし、田中内閣の罪は、その外交面においていっそう大きかったそうです。

のちにくわしくみるように、このころ中国では民族革命が強力にすすめられつつあり、南京政府による全国統一の事業が急展開をしめしていました。

それとともに中国では、多年侵略をつづけてきたイギリスや日本にたいする反撹がはげしくなり、商品のボイコット、居留民にたいする圧迫などがしだいに強まりました。

興味深い歴史 その8

もちろんその背後には、あとでふれるように社会主義勢力の急激な拾頭があったのですが、それにたいして仮借のない弾圧を、しかも多分にテロリズムの性格をもった弾圧をくわえ、また学問や思想にたいしても、はばかるところなくこれを禁圧していくことが、この内閣の基本的な方針でした。

それは同じくブルジョア政党の内閣とはいいながら、憲政会11民政党(憲政会は二年六月、政友本党と合して民政党となった)のそれにくらべて、はるかに露骨な反動性をもっていました。

こうして、内政面でみても田中内閣は、インフレ政策と反動的弾圧とを武器とした多分にファッショ的性格をもった内閣でした。

また、あとでみるように、この内閣には汚れた選挙、うす暗い政治的取引、汚職や買収、権謀術数など、日本の政党政治の腐敗した面がとくに色濃くまっわりついている。

興味深い歴史 その7

翌四年(一九二九)春の第五十六議会には、治安維持法改正案の事後承認がかかりましたが、このときただ一人勇敢に反対した山本宣治は、三月五日夜、警官あがりの右翼テロリスト黒田保久二の兇刃に弊れた。

その背後には警察の黒い手が動いていたといわれます。

そして、その一月あまりのちの四月十六日には、再度八百余名にわたる社会主義者の大検挙が実施された。

それはこの内閣の瓦解の二月余りまえのことです。

こうみてくれば、この内閣が社会主義運動の弾圧に、いかに大きな力をふるったかがおよそわかるでしょう。

小話です(´ω`)

何となく音信が途絶え、数年間、会わずにいたクリスティーヌに再会したのは、パリのとある展覧会場だった。


大袈裟なデスクトップ仮想化で話に夢中になっている金髪の後ろ姿は、紛れもなく彼女だった。


「変わっていないな」と、その横顔を見やり、声をかけようかどうか、しばし躊躇した。


ここで声をかけなかったら、もしかしたらこの大都会でもう二度と会う機会もないかもしれません。


私には私の、彼女には彼女の毎日の生活があって、それは数年前から、交わる必然性のない別々の平行線をたどっていました。


ここで私が声をかけようがかけまいが、大勢に影響はないようなものだったが、やはり懐かしさが先に立った。


私の方から足早に近づいていって彼女の名を背後から呼びました。


勢いよく振り返ったクリスティーヌに気まずい思いをさせては気の毒、と先手を打って自分の名を告げた。


一時は頻繁に交流のあった相手だが、気まぐれな彼女のこと、私のことなどころりと忘れていないとも限らないと思ったからだ。


果たして一瞬の沈黙の後、記憶を一気に取り戻したかのような「まあ、懐かしい」という声と共に大きな抱擁がやってきました。


「ジャーナリストの仕事、相変わらず続けている?」


「それにしても・・・何年ぶりかしらねえ。え、何ですって?そお、結婚したの。えっ、赤ちゃんも生まれたの。まあ、あなたがお母さん。すごいわすごいわ。やったわね」

興味深い歴史 その6

金融恐慌の防止には緊急性を認めなかった枢密院も、このときばかりは緊急性を認めてこれを可決したのです。

さらに翌七月には、これまで東京・大阪・京都・愛知・神奈川など、大都市所在の府県と北海道・長崎などにかぎられていた特高警察を、全国の県に設置する措置がとられた。

社会主義にたいする水ももらさぬ布陣がここに完成したわけです。

興味深い歴史 その5

悪名高い治安維持法が制定されたのは大正十四年二九二五)のことたったが、これはその最初の本格的適用でした。

しかもこのあと、検挙者にたいしては陳然とするような残虐な拷問がくりかえされ、日木の特高警察の悪名を世界にとどろかせた。

また、この余波は大学にもおよび、東大・京大・九大で、河上肇・大森義太郎・向坂逸郎ら五教授が学園から追放されていますが、それは昭和期の学問の自由にたいする侵害の最初のケースでした。

ついで四月には、治安維持法の最高刑に死刑をくわえる改正法を第五十五議会に提出したが、それが政友.民政両党の泥仕合のため不成立に終わると、六月には緊急勅令をもってこれを実施した。

東京の空だって、汚れてはいるが、溜めた雨はけっこうきれいです。

こういう実践の交流が、リサイクル・エコ活動では一番大事なのではないかと思うのです。

まちづくりの発想と、やそのほかの話の発想とで結びついたのが、「路地尊雨水利用」だそうです。

新聞でいろいろ取り上げられたのでご覧になった方もあるかと思います。

この地下に、3トンのタンクが入っています。

これは防災のシンボルだそうです。

自然を利用したエコ。

そして、作られたものを再利用するエコ。

消耗品であるトナー。

リサイクルトナーも素晴らしい再利用方法だと思いました。

興味深い歴史 その4

田中内閣は、芳ではこのようなインフレ的膨脹政策によって国民の人気をあおりながら、他方では社会主義運動にたいして仮借ない弾圧をくわえていった。

たとえば三年一月には衆議院が解散され、二月二+日に第両の普通選挙が実施されたが、このとき無産政党の進出をはばむために田中内閣のとった選挙干渉は、未曽有の露骨な、反動的なものだった。

それにもかかわらず労農党の黙削藩以下八名の無産諸党の代議士が選出されたが、この情勢をみるや、三月十五日には、全国一六〇〇人におよぶ社会主義者の大検挙をおこなった(三.一五事件)。

興味深い歴史 その3

昭和三年には金融恐慌後の不況が多少ともゆるみ、さきの第6図でもわかるように、生産も物価もやや上向く気配をみせはじめました。

しかし、それは決して日本経済の体質を強めるものではなく、むしろいっそう事態を悪化させるものでした。

日本の物価の上昇は、貿易の逆調をいっそう大きくし、三年度には輸出が二干万円余減じた反面、輸入が一七〇〇万円もふえ、輸入超過は前年の一億八七〇〇万円が一.億二四〇〇万円へと、いっきょに四千万円近くも増加した。

それにつれて為替相場の下落もいちじるしくなり、二年三月、対米四九ドル(平価は一〇〇円につき四九1/4ドル)まで回復した相場は十一月には四六ドルに落ち、四年四月にはついに四四ドル台に低落してしまった。

こうして四年にはいるとふたたび景気は沈滞に向かい、日本経済の国際的たちおくれは、ますますはっきりとしてきたのです。

興味深い歴史 その2

その中心をなしたのは、中国出兵を挺子とした陸軍経費の増大であったが、そのほか震災復興事業の促進、農村救済費の放出、植民地経営の積極化なども重要な施策となっていました。

しかも政府は、こういう膨脹する経費を租税によってまかなうよりは、主として公債発行と国庫剰余金のとりくずしによってまかなった。

それだけにインフレ気配はいっそう強まることになりました。

こうした積極政策が、景気のたてなおしに多少の役割を果たしたことは事実です。

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